教育の中心は「宗教」

人間の精神作用は3つ。
「知」と「情」と「意」だ。
ところがこの3つは実際には
分けることができない。
肉体と精神を分けることができないように
実際には、どこから何処までが
「知」の作用で
どこから何処までが「意」の作用
などということは言えないのだ。
あるのは人間だたひとつ。
一なる個人の発露として
「知」と「情」と「意」があるだけだ。
だから人間を
「多」の次元からみてはいけない。

バランスのとれた教育という。
だけどそれは
算数も「70点」、国語も「70点」、
理科も「70点」ということでも、
算数も国語も理科もあれもこれも
ということでもない。

極論を言えば算数が好きなら
算数だけやったってバランスのとれた
人格は形成できる。

問題は、それが「教え込まれて」得たものなのか
それとも、「自分で考えて」得たものかなのだ。
「多」の次元から人間を見てはいけない以上、
その個人から発するもので
人間形成を試みるしかない。
「自分自身で掴むこと」
これがバランスの取れた人格形成の鍵だ。
もっと言ってしまえば
これが真に個々の個性を重んじる
ということだ。

だから、教員の仕事は
「教える」ことではない。
自分で掴めるように
サポートをすることなのだ。

教員をしていた時に
「司会者に徹しろ」と
よく言われたが
まさにそういうこと
だったんだなあと思う。

そして、もう一つ。
「知」、「情」、「意」
は価値として現れると
「真」、「美」、「善」で
あるが
それらをいちいち突き詰めた先に
「聖」という価値がある。
これが文化として現れたものが
「宗教」だ。
人間は宗教的な生きものだと
言われる所以だ。
人間は本質的に「神」を求めるように
出来ている。

だから、教育の究極的な目的は
「神」に出会うことである。
教育の中心は「宗教」であることを
付け加えたい。