神は愛である。
愛は相手の立場に立つことである。
そんなことできるのか。
第三者の立場という限りにおいてなら
それは可能だと思う。
例えば、私個人の見解で言えば、
文春、
文春の記者の中には
牧師バー(敬愛する中村牧師の店)に
足繁く通う者もいる。
よって、全面的に否定する気にはなれない。
※この記者さん、
特集を組んじゃうくらい中村牧師に
傾倒していたりする。
「中村透 文春」で検索!
被害女性、
何年もの長い間、ほんとに辛かったろう。
ということになる。
第三者なら。。
そう。問題は当事者なのだ。
当事者にそれができるのか。
多分、できない。
いや、私ならできない。
ただ、苦しむことはできる。
「許せない」という罪に
苦しむことはできる。
しかし、
聖書を見ると
その苦しみもがく中で
その人は
神の前で「善」とされている。
そこに僕は「救い」を見るのだ。