愛は相手の立場に立つこと

神は愛である。
愛は相手の立場に立つことである。
つまり、
松本人志の立場に立つことである。
 文春の立場に立つことである。
被害女性に寄り添うことである。
そんなことできるのか。
三者の立場という限りにおいてなら
それは可能だと思う。
例えば、私個人の見解で言えば、
そこまでの悪人ではない。
テレビを見ていれば分かる。
文春、
文春の記者の中には
牧師バー(敬愛する中村牧師の店)に
足繁く通う者もいる。
よって、全面的に否定する気にはなれない。
※この記者さん、
特集を組んじゃうくらい中村牧師に
傾倒していたりする。
「中村透 文春」で検索!
被害女性、
何年もの長い間、ほんとに辛かったろう。
ということになる。
三者の立場なら、
それぞれに
寄り添うことは可能だ。
三者なら。。
そう。問題は当事者なのだ。
当事者にそれができるのか。
多分、できない。
いや、私ならできない。
ただ、苦しむことはできる。
「許せない」という罪に
苦しむことはできる。
しかし、
聖書を見ると
その苦しみもがく中で
その人は
神の前で「善」とされている。
そこに僕は「救い」を見るのだ。