寧ろ、科学の時代だからこそ

この科学の時代に
何故神を信じるのか?

こういう類いの問いを聞く度に
いつも違和感を覚える。

寧ろ、科学の時代だからこそ
神の存在を
信じられるようになるん
じゃないのかと。

そもそも何故、
科学的でないと
言語道断で
切り捨てられるのだろう。

いや、勿論、神の存在は
証明できるものではない。
だから、科学的ではないのは事実だ。
しかし、理に適っているとは
どうして思えないのだろうか。

大体、神の存在を
科学的でないと
言っている人達が
科学的だと信じている
進化論とか
その類いのものの方が
よっぽど非科学的で
理に適っていない。

進化論を科学的に
立証しようと思えば
ある生物がその種を変じて
他の種に変化することを
実験によって示さなければ
ならない。
しかし、そんな実例は
一度も示されていないし、
そもそもそんなことが
本当に可能になるとは
到底思えない。

確かに
海に住むイグアナが
海に適して進化し
陸に住むイグアナが陸に
適して進化しているといった
事例は沢山ある。
それは事実だ。
しかし、それらが
どんなに進化した
としても種を超えての
変化ではない。
イグアナは
イグアナなのである。

しかし、進化論者達は
このような
特殊進化論(小進化)を
用いて一般進化論(大進化)を
主張する。
おかしいと思わないのだろうか。
寧ろ、こんなことを主張することこそ
科学に対する冒涜ではないのか。
本気で、鶏が犬になるような
ことを科学的と言い張るのだろうか。

宇宙の始まりや
自然界の事象についても
「神あり」と「神なし」で
検証して見たらいいと思う。
どちらが理に適った
より科学的で
無理のない
説明ができるか
直ぐに答えが出せると思う。

僕は科学者ではないし、
科学には疎い。
しかし、そんな自分でも
体の作りや
自然界に目をやると
あまりに上手く出来ていると
感じずにはいられない。
これが偶然の産物だと
とても思えない。
科学者なら尚更じゃないのか?
無理なこじつけや
苦し紛れの仮説などやめて
素直に見つめれば
本当によく見えてくるし
分かると思う。

最近、ガーデニングに興味を持って
色々な木々や草花について
調べ始めたが
余りにも沢山あって、
とても全部を把握することはできないと
改めて驚きを覚えた。

進化の過程において
こんなにも沢山のデザインが
どうして必要であったのか。。
これだけの沢山のデザインの存在を
進化論でどう説明するつもりなのだろう。

自分には神の人間に対する
愛の現れとしか思えない。