日本人にキリスト教が受け入れられない理由

宮崎駿、最新作『君たちはどう生きるか』について、
面白い現象が起きています。

この作品、日本においては
どちらかと言うと評価が低いです。
しかし、海外においては
とても評価が高いです。

作品の性質によるものだと感じます。
意味が分からない作品なんです。
意味が分からないものを日本人は嫌うんでしょうね。
自分には理解できないものを
日本人は嫌うような気がします。

キリスト教が広く受け入れられないのも
そのような国民性にあるのかもしれません。
少なくとも一要因としてあるような気がします。

なんせ聖書は意味の分からないもの、
理解に苦しむもののオンパレードであるのですから。

例えば、
「全知全能の神がこの世界を創った」と聖書にある。
なら、「なぜ罪が存在するのか」
との問いもそのひとつです。

これ説明できないんですよ。
聖書を読んでも分からないです。

エレンジホワイトも
「罪が現れたことについては理由をあげることができない」
と書いていますものね。
「もし罪の原因とその存在理由とが明らかにされたとしたら、
それはもはや罪ではなくなる」とも。

「罪」の問題とその解決が
聖書の中心テーマでありながら
その原因は分からない。
なかなか日本人に浸透しないのも頷けます。

しかし、同時に
「理解できない」から毛嫌いする。
「説明できない」から信じない。
という態度もどうなんだろうか。
そこには自分中心の高慢さが見え隠れ
しているようにも見えるのです。

人類にはどうやったって
分からないことがあります。
当然、神においては分からないことばかりです。
説明できないことや理解に苦しむ場面にも
どうしてもぶつかります。
でも、「だから神は信じられない」なのでしょうか?
「聖書は間違っている」と切り捨てるのでしょうか?
分からないこと、説明できないことは
沢山ありますが、しかし、同時に
信じるに足る証拠も沢山あります。
そこに目を向けるべきだと思うのです。

人を信用するときだってそうではないでしょうか。
その人のことを全部を知らなければ
信用できない。
そんなことを言っていたら、一生掛かっても
信用することなんてできないでしょう。
注意深く見つめて、関わりを持って、
その中で信用に足る何かを得たのなら、
その先の部分、分からない部分
もきっと大丈夫だろうって信じて、決意して
信頼するのではないでしょうか。
寧ろ、それしかないと思います。

分からないところばかりに目をやって、
そこばかりにこだわってたら
人なんか信用できないです。
神を信じるのも
厳密には違いますが
それと似ていると思うのです。

君たちはどう生きるか』を観て、
意味が分からない。
理解ができない。
だから、駄作である。そうやって、
すぐに決めつけ、切り捨てるレビュー、
本当に多い。。

こういうところに諸外国との差を
感じてしまいます。
キリスト教の背景がないからでしょうか。。