人に寄り添う

「人間は、そのときそこで、
良いとおもうことしか行動しない。」
これが大前提だ。
悪いと思って行動できる人間などいやしない。  
良いと思うから行動するのだ。
それは、ヤクザでも人殺しでも同じだ。
他から見ると、おかしいなと思えることでも、
本人にとってはしごく合理的行動なのだ。
「悪いと思うけどやっちゃった」なんて言うけど、
それは「世間一般的には悪いことだけどね」
というくらいの意味合いに過ぎない。
心の奥底をのぞいてみたらいい、
本心では良いと思ったから行動した
ことに気づくだろう。
悪いと思って行動などできるわけがない。
それが人間だし、それが大前提だ。
そうだとすると、人に寄り添うとはどういうことか。
相手はそれがよいと思ってやったのだ。
寄り添うとは「気持ちを受け止める」ということだ。
なら、まずその相手の行った行動に、
たとえ、それが間違った行為であったとしても、
まずは理解を示すということではないのだろうか。
自分の価値観を一時的に横に置いてでも、
相手の考えを肯定するということではないのだろうか。
そして、それを究極的にやってのけたのが
エス様じゃないのかな。
さすがに私は家族や友人ならいざしれず、
ヤクザや人殺しに寄り添うことなどできない。
しかし、イエス様ならできる。
いや、やってのけた。
ヤクザだろうが人殺しだろうが関係ない。
殺そうとする者にまでに優しいまなざしを向けた。
好んで娼婦や取税人、らい病人といった当時、
罪人と忌み嫌われていたような人たちと食事を共にし、
親しく交わった。だから、沢山誤解もされた。
けれども、そのことによって
救いようもない人間が救われたのだ。
そして、それは私も同じ。
このどうしようもない人間が
エス様のもとで安らぎを得ている。
パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、『なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか』」(マルコによる福音書2章16節)