どこで生きるべきか

猫が鳴く
下で鳴く
朝の5時
それでも起きて下に行くのは
自分を必要として
くれているからだろう。

人は何で幸せを感じるのか。
もうはっきりしている。
お金でもなければ
立派な家や車でもない。
自分を必要として
くれている人がいるか否かだ。
だから、
自分を必要としている人と
いるべきた。
自分が必要とされている
ところで生きるべきだ。
そう思う。

そう思うが、人間の心は
あまりに不安定だ。
人間の心は直ぐに
移り変わる。
自分自身を見つめても
それはよく分かる。
だから、
人と関係を築く時は
裏切られることも
あると覚悟する。
その上で付き合う。
それが本来のあり方
なんだと思う。

つまり、
自分を必要としている人と
生きるべきだと言ったが
それには前提条件があって、
それは
彼らは自分を必要としなくなる
可能性を十分に
秘めた存在であるということ。
それを事前に受け入れ、
許している状態である
ということなんだと思う。
それで初めて
成立することなんだと。

例えば、太宰治の『走れメロス

メロスは友を
裏切る誘惑に打ち勝ち
友のもとに帰ってきた。

しかし、
もし帰ってこなかった
としたらどうだろうと考える。

僕は思うのだが
もし帰ってこなかったとしても
彼の友達、
セリヌンティウス
一時の葛藤はあったとしても
最終的にはメロスを許し、
王の嘲笑にも耐え
そして、処刑に
甘んじたのだと思う。

まとめると
幸せになる条件は人に必要とされているということ。

しかし、その相手は、人である以上、自分を必要としなくなる可能性を秘めた存在であるということ。

それを受け入れた状態で関わっていくことが前提条件としてあるということ。

皆さん、どう思われますか?